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猫又の発祥は中国であるといわれており、隋の時代より日本に伝わった隋の物語や書物によって具現化していったものです。
現在でも多くのアニメや妖怪を題材とした観劇などにこの猫又は多く登場し、私たちの生活になじみある妖怪の一種です。
都市伝説の中には「飼い猫が長生きすると妖力を持ち猫又になる」なんて言い伝えもあります。
現在多くの物語に登場する猫又ですが、はじまりはどのような形で私たち日本人の間に広まったのでしょうか?
猫又伝説の歴史や猫又の特徴などについて早速ご紹介させていただきます。
そもそも「猫又」とはどのような妖怪なのでしょうか?
語られている物語や都市伝説の中に登場する猫又は主に2種類の形があります。
隋の時代に「猫鬼びょうき」・「金花猫」といった妖怪が伝えられてきましたが、日本の書物に登場するのは鎌倉時代のことです。
藤原定家による「明月記」に天福元年(1233年)の8月に妖怪「猫又」が数人の人間を食い殺したとの記述があります。
これが日本における猫又の登場の初出とされています。
ただしこの猫又に関しては「目は 猫 のごとく、身体は大きい 犬 のようであった」と記載されておりモデルが猫であったかは定かではありません。
また、人々が架空の病である「猫又病」に苦しんだという記述から、狂犬病にかかった犬がモデルではないかとの解釈もあります。
他にも様々な記述が存在する猫又は物語によってその容姿・大きさ・能力も異なっており、多種多様に表現されています。
昔の思想や歴史的背景が反映されていたということもありますが、その時代時代により猫又の形は変化していきました。
鎌倉時代の「今古著聞集」には観教法印のお話で嵯峨の山荘に飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出したとの記述があります。
この唐猫もまた飼い猫が化けていた妖怪と記されており、飼い猫も年を取ると化けて人を食べたり、さらったりすると語られています。
江戸時代後期になるとこの飼い猫が年月がたつと猫又になるという考え方が一般化するようになり、山中の猫又も元は飼い猫であると解釈されるようになりました。
したがって、猫は長い年月飼わないほうが良いなどという迷信も各地でうまれました。
その後の江戸時代後期の書物では「年老いた猫の尾が二又に割れて人々を惑わす」などと記述があることから猫又という名が定着しました。
当時はこのように迷信じみたものが常識化されており、瓦版などでも猫又による怪奇現象などが報じられていたのです。
猫又の名前の由来はこの尾が二又に分かれるというものが語源だとされています。
しかし、民俗学的に猫が年月をかけて化けることから、重複の意味で「また」を使用しているのではとする説などもあります。
当時より暗闇に光り輝く猫の目の怪しさや不思議な習性は人々を惹きつける力がありました。
そのため猫は古来より魔性のものとされており、猫を殺すと7代まで祟られるといった俗信が背景となって猫又が誕生したのです。
肉食性の猫が死者の腐臭をかぎわける能力に優れており、死者に近づく習性があったことから妖怪に結びついたと考えられています。
このような俗信が元になり、死者の亡骸を扱う妖怪と猫又が同一視されることもあります。
猫又のほかにも化け猫として登場している物語もあるものの、大本は同じ猫が化けたものであるためこちらも混同して考えられています。
実際にカナダでは尾を2本持つ猫の写真が撮られているそうですが、変異種の可能性が高いです。
鎌倉時代を皮切りに私たちに愛されてきた数々の猫又伝説ですが、その猫又伝説の名残が地名として採用されている土地があります。
旅行などに訪れた際には、その土地にのこる猫又伝説の軌跡を探ってみるもの良いかもしれません。
猫又が人々を食い殺したと伝わる山です。
毛勝三山のうちの一つであり、標高は2378メートルあり飛騨山脈に属しています。
「にいかわのむかしばなし」にて、猫又が山に住み着きたくさんのねこが集まって鳴き声が聞こえていた等の伝承が残っています。
さらに「続・日本の地名」によると、実際に大猫がいて人々をしばし襲うことがあったなどとも伝わっています。
黒部川のほうに山を下りると黒江峡谷鉄道の猫又駅、猫又谷があることから呼応しています。
現在は登山できる山として人々に愛されており、自然豊かな山の景色を楽しむことが可能です。
福島県の北塩原村にある山で、標高は1403メートルあります。
こちらでも猫又が住み着いて人々をたぶらかし、危害を加えていたという伝説があります。
他にも食料をネズミに食い荒らされて困っていた慧日寺の僧が、ネズミ退治のために猫王を山に祀ったなどの言い伝えが残されています。
それらの伝承に関連するように山頂西側には「猫石」という大きな岩が残されています。
現在は登山だけでなくスキー場としても利用されており、シーズンにはたくさんの人々が訪れています。
東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線であり、千代田区と文京区を結ぶ道路です。
その一部に猫又坂という地名が残っており、江戸時代における猫又ブームの名残であるといえるでしょう。
現在は地名を残すのみとなっていますが、東京都の主要道路として私たちの生活に欠かせない道路の一部になっています。
中ノ俣の村に何千年も生きた猫又が暴れたので、吉十郎という男が退治して高田城下の人々にみせたという言い伝えが残っています。
その後「猫又塚」が築かれ、同時に死後の祟りを恐れた人たちの手によって猫又稲荷神社が建てられました。
現在では高田城下の街並みを散歩して楽しむことが可能です。
様々な風体で語られている猫又ですが代表的な姿をご紹介させていただきます。
猫又とは猫をもとに人々が趣味嗜好を凝らし、考え出されたキャラクターでありその表現方法は様々です。
お好みの猫又像を膨らませてみるのも楽しみの一つではないでしょうか?
猫又の記述は後世になるほど大型化する傾向にあり、紀伊の山中で捕らえられた猫又はイノシシほどの大きさであったとの記述があります。
こちらは山中で捕らえられた猫又を描写しており、ライオンほどの大きさがあったとされています。
また1809年の「寓意草」では猫又は約2・8メートルあったと記載されています。
元文2年に刊行されたこの妖怪絵巻の中では人間女性の身なりをした猫又が三味線を弾いている様子が描かれています。
江戸時代には三味線の素材には猫の皮が多く用いられていたため、猫又が同族を憐れむ意味で歌っているという説があります。
また、芸者のことを当時ネコと呼んでいたことから、一種の皮肉が込められているという説もあります。
この妖怪絵巻には猫又は障子から顔をだした猫又、手ぬぐいをかぶって縁側に絵を乗せた猫又などがにぎやかに描かれています。
普通のネコが年月をかけて完全に2本足で立つことができるようになった様子が描かれており、猫又の進化の過程がわかります。
猫又が徐々に妖怪化していく姿には納得できるものがあります。
また、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている「百鬼夜行絵巻」にもほぼ同構図の猫又が描かれていることから関連性が指摘されています。
よく猫を飼っていると猫は死ぬ姿を飼い主に見せないという見解があります。
外飼いしている猫などは年を取ってくるとそのまま帰ってこないということも多いようです。
では、長年居ついていた家から猫が消えてしまうのはどうしてなのでしょうか?
このような疑問から、長年生きてきた猫は力を得て猫又になり遠い地で長生きしているなどとする考えが広まりました。
猫又伝説は飼い猫にいつまでも長生きしていてほしいという人々の願いから生まれた背景もあるのではないでしょうか。
そのような思いや猫のミステリアスな容姿・習性がいろいろブレンドされて、年月をかけるうちに妖怪としての猫又を確立していったのでしょう。
さらには飼い猫が死んで、恩返しのために猫又になって飼い主の前に現れるなどという話もあります。
このような話から、猫がペットとして長年愛されてきた証拠といえますよね。
実際のところ、この見解は定かではありませんが、年老いたことにより散歩途中で力尽きて家に帰れなくなってしまったということでしょう。
さらには交通事故にあってしまったいなど現実的な要素が大きな原因といえるでしょう。
近年では猫は室内飼育が一般化されつつあり、猫が屋外に出かけることはほぼなくなりました。
さらには猫の飼育アイテムの進化により、屋内でも猫がストレスなく過ごせる環境が作られてきたことも要因といえるでしょう。
望まない繁殖を避けるために、近年では避妊去勢が進み発情期に雄猫が雌猫を求めて家を飛び出すということもすくなくなりました。
どのような状況であれ、愛猫の最後は看取ってやりたいと思うものです。
猫又についてご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか。
猫又の進化の歴史にはその時代の教訓や人々の憧れが反映されていました。
さらにはそれだけ昔から猫は人に愛される存在であり、注目され大事にされてきたのではないでしょうか。
こちらの記事を参考に、猫又から猫へ、さらには猫の飼育などへと興味を持っていただければ幸いです。
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公開日 : 2017/10/31